煎茶の色は茶色!?

茶色といえば、お茶の色。たしかに紅茶や烏龍茶は茶色ですね。

 

でも、日本茶だけは、こはく色や濃い緑色。1,000年以上の昔、遣唐使や僧侶によって伝えられたお茶は紅茶や烏龍茶と同じ茶色だったのです。やがて、日本人の創意工夫と茶を愛する心によってほかのお茶に類を見ない、緑色へと変わっていったのです。

 

では、いつから緑茶は生まれたのでしょうか。お茶はその昔、釜で炒ったり、ついて固めたり湯びきして自然に乾燥したりして造られていましたが、これらの製法では製茶までかなりの時間を要し、茶葉のもつ葉緑素やビタミン・アミノ酸は発酵等によりどんどんうしなわれていってしまいます。


現在の煎茶は、若葉だけを摘み、蒸して、焙炉で揉みながら乾燥するという製法によって製茶されています。この製法なら乾燥の時間を短縮し、葉緑素・ビタミン等を損なわずにお茶を造ることができます。これは江戸時代中頃1738年に宇治の永谷宗円により、考案されたものだといわれています。その後沢山の先人たちにより、製茶道具の改良や手揉み技術の発達が図られ、よし自然の味わいを生かした製茶法へと発展してきたのです。


日本で考案された、日本固有の製茶技術がおいしい煎茶を生み出すのですね


煎茶と抹茶の違い。葉っぱが違う!?

味やコクの深いお抹茶と渋みや苦みも大切なお煎茶、同じ茶の樹から採れるのに味わいはとても個性的です。この個性、実はその育て方と製茶の違いから生まれます。お煎茶の葉は太陽の光をその満面に受けて、力強く育ちます。その葉は、摘み取られ製茶工場に運ばれ蒸された後に、乾燥されながら強く揉み込まれます。

 

一方抹茶の葉は、芽が出始めるころから黒い覆いを書けて、直射日光を抑えてやさしく育てられます。製茶の段階でも、抹茶(挽く前の抹茶は、てん茶といいます)はほとんど揉み込まれることなく乾燥させます。こうすることにより、煎茶は味わいの要素である渋み苦みを強め、抹茶はうま味とコクを強めていきます。

 

また、その主成分にも違いがあります。 煎茶はカテキンを多く含み、抹茶はアミノ酸を多く含みます。煎茶は、やんちゃな健康優良児、抹茶はやさしい箱入り娘といったところでしょうか。


茶道でなんで茶碗ぐるぐる??

お抹茶を飲むときお茶碗をぐるぐる廻してから飲むのを不思議に思ったことはありませんか?実はあの茶道には世界に誇れる日本人特有の細やかな心遣いが隠されているのです。

 

お抹茶のお茶碗には、必ず正面と呼ばれる一番きれいな絵柄や模様の部分があります。お茶をたてる人は、お客様にお出しするときその一番きれいな正面がお客様の見えるところにくるようにまわし出します。出されたお客様はそのままお茶を飲むと一番きれいな正面に口を付ける事になるので、正面をずらすためにお茶碗を廻してから飲むのです。

 

しかもその廻し方は、次のお茶を飲むのを待っている人に正面が見えるように、2回に分け、合計45度、角度をずらすのです。

 

2度に分けるのにも意味があります。一度に廻すとお茶碗を落としたり割ったりする危険が多くなるからです。更に、お茶を完全に飲みきったあと、お抹茶茶碗の正面を元に戻し、もう一度きれいな正面をながめ、抹茶茶碗を裏返して糸尻の部分にある作者の刻印を拝見するのです。その際茶碗の抹茶が残っているとお茶をこぼし、畳をよごしてしまうので、お抹茶を完全に飲み干しておかなければならないのです。

 

オリンピックに参加している外国選手に日本のどこがすきか質問した際、最も多かった答えが日本人の細やかな心遣いだったと何かの雑誌に出ていました。そんなささやかな心遣い大切にしたいですね。


大名より偉いお茶

『ずいずいずっころばしごまみそずい、ちゃつぼにおわれてトッピンシャン、ぬけたらドンドコショ』これはわらべ歌の一節ですが、実はこれ将軍様のお飲みになる茶壺を京都の宇治から江戸へ運ぶお茶壺道中を歌ったものだということをご存じでしたか?

当時、茶会は支配階級である武士たちの社交の場として無くてはならないものであり、お茶は大変貴重なものとして特別な扱いをされていました。その貴重なしかも将軍様の召し上がるお茶となれば、その取扱の丁重さは大変なもので、茶壺や荷物を運ぶために千人を越す人足と二百頭を越す馬が各宿で徴収され、茶壺道中の道筋に当たる大名たちは大変な負担を担ったのです。さらにその道中に当たる街道は前もってその補修や清掃が命じられ、農繁期を迎えた農民たちにも大変な負担がかけられたのです。

また、このお茶壺道中が恒例化、制度化された1633年以降は茶壺はお大名様より偉くなり、茶壺に遇えば、大名行列も路肩に控えて通りすぎるのを待ったそうです。今になってみればなんとも馬鹿げた話ですが、当時の人達にとっては『茶壺に追われて戸ピッシャン、抜けたらドドコショ』と歌いつがれる程恐ろしい年中行事だったのです。


黄金の国ジパングの宝物−緑茶

最近、紅茶の入れ方教室やイギリス式ティーパーティーの開き方などが各地で開催されちょっとしたブームですが、このお茶を社交や生活に潤いを与えるものとして用いる習慣は実は日本から発信された文化なのです。

ヨーロッパの人々が茶に初めて接したのが大航海時代でした。彼らは、海を渡り中国で「茶」という薬としての効果が大きく、来客をもてなす飲み物に初めて出会いましたが、その後日本に渡った彼らが見た日本の茶は中国のそれとも全く異質の驚きを彼らにあたえたのです。彼らヨーロッパ人が日本の茶に接したのは十六世紀中頃から後期にかけてですが、この時代の日本はまさに戦国時代の真っ只中、信長・秀吉の庇護のもと千利休の茶の湯が全盛を極めていました。

彼らにとって茶の湯は実に不思議なものでした。当時の日本は金銀の埋蔵量が豊富で金閣寺・銀閣寺などのような豪華な装飾を施した建造物のある、まさに「黄金の国」だったのです。その日本の支配階級の人々が、お茶を飲むためだけにわざわざ小屋まで造り、しかもその小屋は体を折らなければ入れないほど狭い入り口で、まともな窓もなく薄暗く、そのうえ茶を飲む器は古びてひん曲がった時にはひびが入ったものまであり、しかもそれらがまるで宝物のように扱われている。当時、日本に宣教師としてやって来て、信長にも仕えたルイス・フロイスは母国に次のような報告を行っています。「われわれは宝石や金、銀の片を宝物とする。ところが日本人は古い釜や古いひび割れた陶器、土製の器などを宝物とする。」(日欧文化比較)

このようにして茶は単なる飲み物としてではなく憧れの国の文化として、ヨーロッパへ発信され、1610年長崎・平戸からオランダ東インド会社によって渡っていきました。



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