茶道三千家の茶の湯の世界

千利休が遺した茶の湯の世界は、その後娘婿・少庵に受け継がれます。利休には豪放な性格の嫡子・道安がおりましたが、利休は少庵には優しく、道安にはとても厳しかったといわれています。

 

利休切腹の後、少庵は会津の蒲生氏郷の元で庇護を受けましたが、秀吉に許されて千家を相続し、京に家屋敷を与えられて、利休の茶道具も返却されました。こうして千家を再興した少庵はとても柔和な性格で、剛の道安に対し柔の少庵と呼ばれました。

 

また、少庵の子宗旦は、利休賜死の少し前、11歳で大徳寺に預けられ千家再興の許される17歳の時まで禅の修業をし、のちに禅思想と茶の湯を融合した侘び茶を発展させました。宗旦は10代で結婚し、前妻との間に宗拙・宗守を、後妻との間に宗左・宗室の2人の男子を儲けました。次男宗守は養子に出されましたが、家業を娘に託し武者小路に居を構え茶の湯の世界に戻りました。晩年高松藩の茶堂となり、代々継承されてきました。この宗守の茶道はその茶室 の名より、官休庵・武者小路千家となりました。

 

三男宗左は祖父少庵から続く家屋敷「不審庵」を継承し、表千家四代となります。 宗左は30歳のとき紀州徳川家の茶頭となり、江戸時代を通し絶大なる地位を築きました。 

 

また、宗旦は宗左に不審庵を譲った後、隣接した地に茶室「今日庵」を建てて隠居します。四男宗室はこの父の遺した今日庵を相続し、不審庵の裏手にあったため裏千家と呼ばれました。裏千家は代々加賀前田家・伊予松平家の茶道奉行を務め大樋焼等を育てました。

 

利休の茶の湯は、こうしてその子孫・三千家に代々受け継がれ、世界に冠たる日本の文化・茶道として大成したのです。


インフルエンザの予防に梅酢入りの緑茶でうがい

緑茶に含まれるカテキンにはインフルエンザウイルスの表面にくっついて、その感染性を阻止する効果があることが、昭和大の島村教授らの研究により見い出されました。

 

私どものお店では、外出後にはかならず、緑茶でうがいをします。特に少量の梅酢を加えると、喉の痛みやイガイガがすっきり取れるような気がします。ご家庭でも是非お試し下さい。もちろん緑茶を飲んでもインフルエンザの予防になります。これはカテキンやビタミンCにウィルスの増殖を抑える効果があるためと言われています。


千利休以前の茶の湯の世界

今までのおたから新聞でも書いたように、鎌倉時代に中国よりもたらされた、喫茶の風習は、室町時代の婆娑羅や禅宗の影響を受けながら、日本の文化として受け継がれ、広められていきました。  室町時代の末期になると、茶の湯は将軍のそばに仕える高貴な身分の者から、大阪・堺の豪商達の間にも広がっていきました。

 

千利休の茶匠である北向道陳(きたむきどうちん)武野紹鴎(たけのじょうおう)らもこうして茶の湯を学びました。しかし、商人達にとっての茶の湯はただの数奇の芸道ではなく、守護大名や戦国大名との関係を取り持つ場でもあったようです。

 

千利休に侘び茶を伝えた武野紹鴎(たけのじょうおう)はまさしくこのような茶人のひとりです。彼は武具商の家に生まれ、24歳の時に三条西実隆について和歌を学び、村田珠光の門下で茶道を修めました。その後30歳で出家し紹鴎を号し、大徳寺にて禅を学びました。この禅道と歌道を学んだことは、紹鴎の茶事に多大な影響を及ぼし、独特の深みのある侘びの世界を作り出しました。

 

彼は草庵風の四畳半座敷や三畳・二畳の小座敷を作り、割った竹を使った蓋置や茶杓・袋棚やなつめ形の茶入などを考案しました。茶の湯に侘びの境地を拓き、千利休や津田宗及・今井宗久等名高い門弟を育てました。しかし彼には、茶人の顔とは違うもうひとつの顔があったのではないかと思います。

 

狭い小間の座敷に武士や高貴な人を客として招き、商談にはうってつけの状況の中、紹鴎らは、何を話し何を得ていたのでしょう?事実紹鴎は、外国との貿易を通じ、武具や獣皮などを扱い、巨万の富を得ていたと言われています。

 

こうした武野紹鴎を師匠と仰いだ若き日の利休にとって、このもうひとつの顔もとても魅力的なものであったのかもしれません。


夏の間で使わなかった 秋は御急須の手入れから

お茶の美味しい季節、久しぶりにお茶を淹れた時、「あれ?!お茶が美味しくないぞ」と思われたことはありませんか?

 

夏の間使わなかった御急須は、内側はきれいに見えても、注ぎ口の中は、湯ドロと茶殻でかなり汚れていたりします。特に大きな金網のついた深蒸し急須は、網の裏側の汚れは、漂白剤に浸けてもなかなか取れません。金網を、注ぎ口の方から割り箸などの棒で押すと簡単に取り外すことができます。外してみて、こんなに汚れていたのとびっくりなさる方も少なくないと思います。


外したら、急須の注ぎ口の内側と網の裏側を食器洗剤を使い、歯ブラシなどで磨けば、比較的簡単にきれいになります。磨いた後外した網を元の位置にはめ込めばOKです。

 

また、金網は、当店にて1枚百円ほどでお求めいただけますので、網を取り替えてしまうことも出来ます。急須と外した網をお持ちいただければ、お掃除・網のお取替えもいたしております。お茶の恋しい季節、御急須もリフレッシュして、美味しいお茶をお召し上がり下さい。

 

お掃除カンタン 茶殻がきれいに洗い流せる

深蒸し急須新発売! お茶殻を捨てるとき、なかなかきれいに取れなくて、力をいれて振ったら割っちゃったなんて経験ありませんか? 実は、私よくやります・・・。  この急須は、注ぎ口の反対側の「ふち」をとり、茶殻を水に流しやすくしました。口が広く蓋も大きめで茶葉も入れやすい。 茶殻がすっきり捨てられて、使いやすいシンプル「楽々急須」 を販売中です。

 

忙中閑話

 

秋空が高く澄んで見えることを「秋高し」と言いますが、これは「秋高く馬肥ゆ」との中国の故事から来ています。これは辺境の匈奴が秋になり空が高くなると豊富な食糧で肥えた軍馬に乗って万里の長城を越えて攻めてくるという勇壮な故事です。スポーツの秋・食欲の秋、爽やかな秋に、心も体も元気になって頑張って行きたいものです。
 


日本茶の歴史 将軍足利義政と茶の湯のあけぼの

以前の記事で室町時代、特権階級の贅沢な遊びとしての婆沙羅のお茶と禅宗の寺 の薬膳としての喫茶の風習が生まれたと書きました。

この禅寺で受け継がれた喫茶の風習は、やがて新しい茶文化を生み出します。


室町時代後期の茶人、村田珠光は幼少の頃から寺に入り、十余年の後、京の大徳寺 の一休宗純より禅を学び、この禅の教えを茶の湯に加味して茶禅一味の茶の喫茶法を 創始しました。ちょうどこの頃、わずか八才で家督を継いだ八代将軍足利義政は、妻・日野富子の 影響もあって、政治を離れ、風流の世界に生きがいを求めます。

 

そして大飢饉や応仁の乱の勃発もお構い無く、東山に銀閣などの寺や山荘を建て、 優れた文化を生み出します。義政は建築・造園・書画などの文化への造詣は深く、珠光の茶の湯も義政の庇護を 受けました。義政は僧侶であった珠光を還俗させ、将軍家の茶匠とします。    

 

この頃の茶の湯は、作法というよりも、禅の心を取り入れた精神的なものであり、 「茶数寄」と呼ばれました。この「数寄−すき」とは、風流の道を好むことであり、ここに禅の心を加味した日本独自の喫茶法が生またのです。

 

この後、珠光は京・三条のあたりに屋敷を賜り、茶を広めました。応仁の乱の後、台頭した京都や堺の商人の多くが茶数寄の心にひかれ、珠光の弟子 となり、その後、武野紹鴎・千利休へと受け継がれて行きます。

 

ところでこの数寄という言葉、同じ文字で全く異なる二つの意味があります。ひとつは先にも書きましたように、風流の道を好むことであり、もうひとつは不遇 な運命・不幸という意味です。

 

数奇とは、茶の湯や銀閣などの建築など今にも続く優れた東山文化を生み出しなが ら、将軍としての職責を果たせず、思いと裏腹に戦乱の世を開いてしまった足利義政 の人生そのものを現わした言葉であるように思います。
 



カテゴリー

 

おすすめ記事

アーカイブ

稲毛のおすすめ

モバイル版

qrcode

広告