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  • 2018.07.14 Saturday
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季節が変わると味覚が変わる!?

人間は、季節の変化により、味覚が変わります。春から夏にかけ、さっぱりとした苦味のあるものが好まれ、秋から冬にかけては、コクのある甘みのあるものが好まれるのは、このためです。当店では、年間を通し、同じ味で日本茶を愉しんでいただけるよう、お茶の最終工程である、仕上げの火の入れ具合を変えたり、ブレンドの配合比率を変えています。 

 

しかし、「あれ!?今日のお茶、いつものと違う?」と思ったことはありませんか?最近では、急激に季節が変わることが多くなってしまいました。 急激な寒さの訪れに、着る物を入れ替えたとたん、小春日和のような暖かな日になってしまったりということもよくありますよね。 

 

こうした変化の激しい季節には、配合の調整が追いつかずに、こうしたお話を戴くことがあります。 このブレンドの調整が一番良くわかるものが、春の予約新茶と秋の蔵出し茶です。 同じ原料を使用しながら、火入れと調合比率の変化により、全く違う風合いのお茶に仕上げています。今年の蔵出し茶は、こっくり甘い独特の風味です。季節の変化を感じながら、当店独自の配合の味わいを、是非お確かめください。


日本でお茶を飲み始めたのは??

日本で始めてお茶が飲まれた記述は、天平元年(729年)から始まった季御読経(きのみどきょう)という宮中行事の中に、見受けられます。

 

季御読経とは、季節ごとに国家の安泰を祈願して、宮中に100名ほどの僧侶を招き、大般若経を講じた行事です。全部で3・4日に渡り、行われた行事の、2日目に僧侶たちに「引茶」という接茶が行われていました。これが日本における、接茶の最初の記述です。

 

当時のお茶は、唐から伝来した、貴重な最先端文化でした。その頃のお茶の飲み方は、抹茶ではなく煎茶で、これを居並ぶ僧侶たちに注ぎ分け、当時の甘味料や生薬・しょうがなどを好みで加えて、飲まれていました。当時の茶は、遣唐使が持ち込む大変貴重なものでした。

 

その後、藤原摂関家などによる、権力を誇示するための、私的な季御読経が行われるようになり、饗応の宴としての色彩が強くなり、鎌倉時代後期には、全く行われなくなってしまいました。

 

酒・肉を使えない僧侶への接待として、当時貴重な茶を供用したことが、後の世に仏教と茶のつながりを深め、禅の心を茶の作法に取り入れた、茶の湯の大成へと、つながっていったのでないでしょうか。


煎茶道、中興の祖 売茶翁・高遊外

時は元禄・享保の頃、町人文化がもてはやされ、華やかな時代。一人の僧侶が京都東山に庵を構えます。彼は京の方々の辻に茶道具を担いで出向き、「茶銭はくれ次第、只飲みも勝手、只より負け申さず」という狂言を書いて行き交う人々に茶を淹れました。

 

僧侶の名は売茶翁こと高遊外。鍋島藩士の子として生まれ、11歳のときに黄檗宗の仏門に入り、師の死後、寺主に推挙されながら「人の正邪は心であって、跡目ではありません。袈裟の徳を誇って人の寄進するお布施を煩わすのは、善を為そうとする者の志ではありません」と断って、57歳のときに京に上ります。

 

その当時の茶は、今のように揉んで作るのではなく、挽いて抹茶にする以外は煮出さなくてはなりませんでした。そのため色は茶色で今の茶より苦かったといわれています。

 

お茶を売ってわずかな銭を得ても、その生活は清貧・質素なものでありました。翁の真意は茶を淹れることで、うかれた衆人の目を覚ましたいという禅の実践にあったといわれます。翁は81歳になるまでこの生活を続け、永谷宗円などの茶人と関わりを持ちました。その高潔な精神は後の人々を育て、現在の煎茶道中興の祖として受け継がれています。

 

売茶翁・高遊外は、売茶の生業の終りに長年、共に暮らし、命を支えてくれた茶道具を、俗人の手に渡り辱めを受けることはさぞ遺恨であろうと親しかった木村簾霞堂に譲られた数点の茶具を遺して焼却してしまいました。

 

その9年後自らも亡骸を火葬し、砕いて川に流すよう遺言しました。うかれた元禄の時代、形骸化した禅・茶道ではなく、本来の精神に立ち返ることを願い花鳥風月と共に生きた翁の心が伝わります。


古田織部の茶事と織部焼

安土桃山期の茶人、古田織部は信長・秀吉・家康・秀忠に仕えた武将でありながら、利休より茶の湯を学び、細川忠興や高山右近らと供に利休七哲に数えられた茶人でした。

 

織部は利休や秀吉の死後、家康に用いられて、武家茶道の発展に努めましたが、大阪夏の陣で陰謀を疑われ自害しました。織部の茶道は、利休のわび茶の精神を継承しながらも、「織部好み」と呼ばれる自由で大胆な茶の湯を創り出しました。織部の茶事は、素朴なばかりではなく、武家社会の接客の形式を取り入れ、路地に灯籠を多く配置したり、腰掛を貴族などとの相席を分けたり、立ったまま手の洗える手水鉢を創ったりしました。

 

その精神は、今の日本家屋の中にも多く取り入れられ、日本の建築・造園・料理・製紙などにも多くの影響を与えました。特に陶器の世界では今も織部焼として残る独特の技法を取り入れました。織部は美濃の出身であったため美濃焼とのつながりが深く、奇妙にゆがんだ「沓形茶器」のような現代の前衛的な作品にも通ずる作風を生み出し、一部に緑の釉(うわぐすり)を塗り残りの部分に鉄絵の文様を 書いた「青織部」や白土と赤土をつないで白土の部分に緑釉を赤土の部分に鉄の線を描いた「鳴海織部」、全面に緑釉を塗りその上に刻線や櫛目の文様を描いた「総織部」などの技法があります。


当店では、美濃焼の窯元・弘二窯にお願いし、オリジナルの鳴海織部の湯呑茶碗を作製いたしました。両手のひらにちょうど収まる大きさで下を手になじむようにダイヤ型にカットした丸茶碗と竹に笹を翳した様な趣の下が平らなたたら仕上げの筒茶碗の二種です。

 

織部の生み出した感覚は、日本人の生活に溶け込み、更に今もなお見るものの心をときめかす作品を多く残しています。


番茶に塩??京番茶の美味しい飲み方

茶に関する最古の文献と言われる中国唐代の文人陸羽の書いた「茶経」の茶の入れ方でお湯が一沸(魚の目ほどの小さな泡が立ちかすかな音のする状態)の時に水を茶の量にあわせて、塩で味を調えると書いてあります。

 

このころのお茶は、発酵させて固めた団茶を使っていました。日本でも阿波番茶や碁石茶・北陸地方のバタバタ茶など発酵した茶葉を煎じて飲む時には、少量の塩を加える風習が残っています。

 

当店で販売する京番茶も天日乾燥させた茶葉を使う同類の茶です。これに少量の塩を加え煮出して、冷やした茶は夏ばて予防塩分補給に良い茶かもしれませんね。



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