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  • 2018.07.14 Saturday
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煎茶道教室開講します

                

 

六月より、煎茶道方円流の岡本先生による「おいしい煎茶を楽しむ会」がスタートします。

煎茶をはじめ、色々な茶葉の美味しい淹れ方を学びながら、穏やかなおもてなしの心を感じていただけたら…との思いから、当店のお茶を提供することになりました。

 

毎月第2金曜日 午後2時〜4時、

稲毛音楽室(京成稲毛駅前・ヤマギビル地下1階)にて開講いたします。

 

第1回目は、6月8日㈮、2回目は7月13日㈮です。

茶巾などのお道具代として入会金1,000円、会費2,000円です。

 

お稽古はすべて机と椅子で行います。

おいしいお茶とお菓子でくつろぎのお時間を過ごしませんか?

 


日本でお茶を飲み始めたのは??

日本で始めてお茶が飲まれた記述は、天平元年(729年)から始まった季御読経(きのみどきょう)という宮中行事の中に、見受けられます。

 

季御読経とは、季節ごとに国家の安泰を祈願して、宮中に100名ほどの僧侶を招き、大般若経を講じた行事です。全部で3・4日に渡り、行われた行事の、2日目に僧侶たちに「引茶」という接茶が行われていました。これが日本における、接茶の最初の記述です。

 

当時のお茶は、唐から伝来した、貴重な最先端文化でした。その頃のお茶の飲み方は、抹茶ではなく煎茶で、これを居並ぶ僧侶たちに注ぎ分け、当時の甘味料や生薬・しょうがなどを好みで加えて、飲まれていました。当時の茶は、遣唐使が持ち込む大変貴重なものでした。

 

その後、藤原摂関家などによる、権力を誇示するための、私的な季御読経が行われるようになり、饗応の宴としての色彩が強くなり、鎌倉時代後期には、全く行われなくなってしまいました。

 

酒・肉を使えない僧侶への接待として、当時貴重な茶を供用したことが、後の世に仏教と茶のつながりを深め、禅の心を茶の作法に取り入れた、茶の湯の大成へと、つながっていったのでないでしょうか。


煎茶道、中興の祖 売茶翁・高遊外

時は元禄・享保の頃、町人文化がもてはやされ、華やかな時代。一人の僧侶が京都東山に庵を構えます。彼は京の方々の辻に茶道具を担いで出向き、「茶銭はくれ次第、只飲みも勝手、只より負け申さず」という狂言を書いて行き交う人々に茶を淹れました。

 

僧侶の名は売茶翁こと高遊外。鍋島藩士の子として生まれ、11歳のときに黄檗宗の仏門に入り、師の死後、寺主に推挙されながら「人の正邪は心であって、跡目ではありません。袈裟の徳を誇って人の寄進するお布施を煩わすのは、善を為そうとする者の志ではありません」と断って、57歳のときに京に上ります。

 

その当時の茶は、今のように揉んで作るのではなく、挽いて抹茶にする以外は煮出さなくてはなりませんでした。そのため色は茶色で今の茶より苦かったといわれています。

 

お茶を売ってわずかな銭を得ても、その生活は清貧・質素なものでありました。翁の真意は茶を淹れることで、うかれた衆人の目を覚ましたいという禅の実践にあったといわれます。翁は81歳になるまでこの生活を続け、永谷宗円などの茶人と関わりを持ちました。その高潔な精神は後の人々を育て、現在の煎茶道中興の祖として受け継がれています。

 

売茶翁・高遊外は、売茶の生業の終りに長年、共に暮らし、命を支えてくれた茶道具を、俗人の手に渡り辱めを受けることはさぞ遺恨であろうと親しかった木村簾霞堂に譲られた数点の茶具を遺して焼却してしまいました。

 

その9年後自らも亡骸を火葬し、砕いて川に流すよう遺言しました。うかれた元禄の時代、形骸化した禅・茶道ではなく、本来の精神に立ち返ることを願い花鳥風月と共に生きた翁の心が伝わります。


古田織部の茶事と織部焼

安土桃山期の茶人、古田織部は信長・秀吉・家康・秀忠に仕えた武将でありながら、利休より茶の湯を学び、細川忠興や高山右近らと供に利休七哲に数えられた茶人でした。

 

織部は利休や秀吉の死後、家康に用いられて、武家茶道の発展に努めましたが、大阪夏の陣で陰謀を疑われ自害しました。織部の茶道は、利休のわび茶の精神を継承しながらも、「織部好み」と呼ばれる自由で大胆な茶の湯を創り出しました。織部の茶事は、素朴なばかりではなく、武家社会の接客の形式を取り入れ、路地に灯籠を多く配置したり、腰掛を貴族などとの相席を分けたり、立ったまま手の洗える手水鉢を創ったりしました。

 

その精神は、今の日本家屋の中にも多く取り入れられ、日本の建築・造園・料理・製紙などにも多くの影響を与えました。特に陶器の世界では今も織部焼として残る独特の技法を取り入れました。織部は美濃の出身であったため美濃焼とのつながりが深く、奇妙にゆがんだ「沓形茶器」のような現代の前衛的な作品にも通ずる作風を生み出し、一部に緑の釉(うわぐすり)を塗り残りの部分に鉄絵の文様を 書いた「青織部」や白土と赤土をつないで白土の部分に緑釉を赤土の部分に鉄の線を描いた「鳴海織部」、全面に緑釉を塗りその上に刻線や櫛目の文様を描いた「総織部」などの技法があります。


当店では、美濃焼の窯元・弘二窯にお願いし、オリジナルの鳴海織部の湯呑茶碗を作製いたしました。両手のひらにちょうど収まる大きさで下を手になじむようにダイヤ型にカットした丸茶碗と竹に笹を翳した様な趣の下が平らなたたら仕上げの筒茶碗の二種です。

 

織部の生み出した感覚は、日本人の生活に溶け込み、更に今もなお見るものの心をときめかす作品を多く残しています。


茶道三千家の茶の湯の世界

千利休が遺した茶の湯の世界は、その後娘婿・少庵に受け継がれます。利休には豪放な性格の嫡子・道安がおりましたが、利休は少庵には優しく、道安にはとても厳しかったといわれています。

 

利休切腹の後、少庵は会津の蒲生氏郷の元で庇護を受けましたが、秀吉に許されて千家を相続し、京に家屋敷を与えられて、利休の茶道具も返却されました。こうして千家を再興した少庵はとても柔和な性格で、剛の道安に対し柔の少庵と呼ばれました。

 

また、少庵の子宗旦は、利休賜死の少し前、11歳で大徳寺に預けられ千家再興の許される17歳の時まで禅の修業をし、のちに禅思想と茶の湯を融合した侘び茶を発展させました。宗旦は10代で結婚し、前妻との間に宗拙・宗守を、後妻との間に宗左・宗室の2人の男子を儲けました。次男宗守は養子に出されましたが、家業を娘に託し武者小路に居を構え茶の湯の世界に戻りました。晩年高松藩の茶堂となり、代々継承されてきました。この宗守の茶道はその茶室 の名より、官休庵・武者小路千家となりました。

 

三男宗左は祖父少庵から続く家屋敷「不審庵」を継承し、表千家四代となります。 宗左は30歳のとき紀州徳川家の茶頭となり、江戸時代を通し絶大なる地位を築きました。 

 

また、宗旦は宗左に不審庵を譲った後、隣接した地に茶室「今日庵」を建てて隠居します。四男宗室はこの父の遺した今日庵を相続し、不審庵の裏手にあったため裏千家と呼ばれました。裏千家は代々加賀前田家・伊予松平家の茶道奉行を務め大樋焼等を育てました。

 

利休の茶の湯は、こうしてその子孫・三千家に代々受け継がれ、世界に冠たる日本の文化・茶道として大成したのです。



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